創業からわずか4年で株式上場
Intelと技術提携契約
このように、この頃のAMDは総合ICベンダーであった。1972年に株式上場を果たすが、翌1973年にはIntelのさまざまなMOSデバイスのセカンドソース契約を締結。それもあってこの年だけで200品種を超える製品を出荷開始している。このうちAMD独自の製品も49あったというから、急速に売上も増えていた。
1971年末の売上は130万ドルだったのが、1973年にはこれが1120万ドルまで増えている。この後も順調に製品を増やしつつ、新分野への挑戦も忘れなかった。1974年にはAm9102(1Kbit SRAM)でSRAMマーケットに参入したほか、Am2900というBit Slice方式のICシリーズを発表する。
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このシリーズはCPUを構成するためのコンポーネントを提供するもので、組み合わせることで任意のCPUを構築できるというものだった。有名なところではDECのPDP-10やData GeneralのNOVA 4などがある。
またこの年Am9080というCPUを発表するが、実はこれはIntelの8080をリバースエンジニアリングして開発した製品であった(のちにIntelからライセンスを取得している)。少なくともこの時点でAMDはCPUのリバースエンジニアリングが可能な技術力を保持していたわけだ。
ただこの頃のAMDは、x86にそれほどの未来があるとは考えていなかった。それもあって1997年にはシーメンスと共同でAMC(Advanced Micro Computer)というジョイントベンチャーを設立、産業用コンピューターのマーケットに進出している。
またAMDは16bit CPUのマーケットをZilogが握ると判断、同年Z8000のセカンドソース契約を結び、翌1978年にはZilogとクロスライセンス契約も締結している。もっともシーメンスとのジョイントベンチャーはすぐに両社の思惑の違いが露呈し、契約が解消された。AMDはプロ向け市場に、シーメンスはコンシューマー市場にそれぞれフォーカスしたかったからだ。
一方のZilogは、1980年に入ってZ8000の競争力が予想以上に無い、というよりx86が予想を上回る伸びでマーケットを圧倒したこともあり、結局セカンドソースを取ったものの製品にはほとんどど貢献しなかった。
とはいえ、1980年の売上は2億2560万ドルに達しており、純利益も2330万ドルと過去最高の数字になっていた。こうした勢いもあって、1980年にはTDC(Technical Design Center)をサニーベルに開設、翌1981年にはテキサス州サン・アントニオに新たな工場の建設をスタートする。
その1981年にはIntelと技術提携契約(Technology Exchange Agreement)を結んでおり、翌1982年にはIBM-PC生産に係るセカンドソース契約も締結。8086/8088/80186/80188の各CPUをそれぞれAm8086/Am8088/Am186/Am188として製造・出荷を開始している。
ちなみに1982年はFab 1を閉鎖し(さすがに2インチの工場はそろそろ不効率に過ぎたからだ)、また独自のAm29116というCPUを発表している。これは後に出てくるAm29000シリーズとは別物で、Am2900の16bit版とでもいうべきものだが、Am2900よりずっと集積度が高く、1チップで16bitが扱えるもので、動作速度も高速だった。それもあってSuper Sliceなどと呼ばれていた。
画像の出典は、THE CPUSHARK museum
当初はバイポーラで製造されたが、後にCMOS版も出ており、これもDECのPDP-11などに利用された。このAm29116は組み込みシステムなどにも利用されており、TIやCypressなどがセカンドソース契約を受けてその後も供給していたという、意外に隠れた名品である。